世田谷のアトス・マニャーニ

最近はこの先数年間の予定が大部分白紙になった反動から毎日異常な量の線を引き続ける完全なワーカホリックなのだけれど、GYAO!で『フェリーニのアマルコルド』や『ノスタルジア』、『暗殺のオペラ』といった静かすぎる名画を観たりしながらなんとか自我を保っている。そんな中たまたま風の噂で宣伝が流れてきた『大失敗 I-2』を買い、左藤青「建築は『不気味』たりうるのか?」に書かれている隈研吾批判が、自分のぼんやり思っている隈研吾の印象にかなり近く、とても面白く読んだ。

左藤氏がそのキッチュさにおいて隈研吾の代表作とすべきであると評価する「M2ビル」という「黒歴史」に対する隈の反省は、商業主義に駆動されたポスト・モダニズムはアクチュアルな建築の問題ではないという80年代批判であり、これを起点に隈は「負ける建築」への転向を遂げる。しかし自分はここで結局隈研吾の建築のアクチュアリティとはなんなのだろうかと考えてしまう、ここに建築という「物」が帯びてしまう不可避の両義性がある。

隈研吾の建築理論を考えるには、表象批判の矛先であった建築のポスト・モダニズムや「負ける建築」がモダニズムから引き継いでいる機能主義*1を検証する必要がある。たとえばポスト・モダニズムの建築として左藤氏も言及している磯崎新の「つくばセンタービル」を振り返って考えると、磯崎は「ポスト・モダニズム」という語を過去の建築様式や建築物を引用する歴史主義というような意味よりもかなり限定したコンセプトとして語っていた。

つくばセンタービル」は完成前から、日本国内だけでなく、国外でも注目された。論争的でもあった。背後でポスト・モダニズムが語られはじめたからだった。前出の論*2は民族国家「日本」の貌の消失を表象するためにこそ、引用の集積によるパスティーシュは正当化できることを語ろうとした。批判的ポスト・モダニズムという枠組みがあれば、私はそこに自分の位置を定めたい、と考えていたが、この建物についての論争を集約した「建築のパフォーマンス」(パルコ出版、一九八六年)をみてもわかるように、私の意図はほとんど理解されることはなかった。歴史的建築様式のパスティーシュをつくりさえすれば、それをポスト・モダニズムという短絡的思考が支配してしまったからだ。この建物によって、私は日本におけるこの流行の代表者のようにみられてしまった。いくらかその有様を楽しみはしたが、これはまったく私の本意ではない。*3

磯崎は「つくば」において、都市開発という国家プロジェクトの中心的な施設が国家を象徴しなければならないという要請を(自発的に)感じ取り、「現代日本」を含まないある種の国家や文化を表象する様式の引用と集積という方法で、ネガティブな像として「日本」を表現した。*4

このように磯崎の言うような様式の引用と集積、より雑駁に言えば図像の復権*5としてポスト・モダニズム建築を定義づけると、「M2ビル」の外観はポスト・モダニズム建築としか言いようがない。しかしそのコンセプトは微妙に磯崎の意図しているそれとは違う。

この建物もある意味、反骨精神を持って設計しました。建築デザインの流れは、安藤忠雄さんのコンクリート打ち放しがあって、その後、伊東豊雄さんなどのパンチングメタルを使った軽い建築が出てきて、デザインの傾向がそちらに流れているころでした。一方では日建設計や日本設計がやっている通向きの建築があり、「俺はどれでもないぞ、俺は俺」という思いでした。
自分は、観念的な建築ではなく、リアリスティックな建築をつくりたいと思ったのです。リアルとは、東京のカオス(混とん)が建築になったものだと考え、M2をデザインしました。自分でも、事務所を始めて数年でよくあんなに大胆なデザインをする勇気があったなと思います。コンクリートに縛られなければ、もっとリアルなものが設計できたとも感じます。*6

 このように、隈にとってのポスト・モダニズムの意匠は、カオティックな都市の現状を表現することを目的としたものであり、これは磯崎にとっては彼の批判するところの「歴史的建築様式のパスティーシュ」にすぎないとも言える。隈はこの後地方での仕事を通じて職人の手仕事や建材の物性に着目した作風に変化してゆく。「M2ビル」からの転向において隈の作家性は非常に急激にかつ明快に変化したように思われる。

しかし、「新国立競技場」に対して左藤氏が指摘するように「自然な建築」を徹底することができたかどうかに関わらず、木材というキッチュな「表象」を用いた建築を作っているのである。つまり隈はバブルとともに崩壊したポスト・モダニズムの扱った表象を批判し、そこからの転向を宣言しておきながら「木」をはじめとした建材とそれに結び付けられているイメージを巧みに味方につけながら資本主義ないしは民主主義との和解を行っているのである。ここに、歴史的建築様式を否定しながら表象としての木が持つ商品価値を利用している、結局は商業主義の論理の中で、その表象が商品価値を持つ対象物を使い分けている、というだけであったことが明らかになる。隈のこの手つきは、モダニズムと日本伝統建築を架構システム以外のほとんどを捨象して強引に結びつけて国際社会でメディア的な成功を収めた丹下健三など二世代ほど上の国家的建築家達とパラレルであるという指摘も可能だ。

これは左藤氏が言うように、「隈の『生存戦略』にとっては、『建築』が少しでも大衆に受け入れられること、『社会の敵』ではないことが重要なのだから」*7である。さらに言えば、隈がオリンピックと言う国家的事業でも相応に優等生的な商品としての建築を作り続けることができることは、大阪万博で国家的事業にテクノクラートとして参画しプロパガンダに加担することから「心情的に脱落」した磯崎と好対照でもある。

 

ただ、さしあたって批評家ではなく建築の意匠論を専門としている自分にとって何が問題なのか、それは隈がこのような一貫性を隠蔽しながらなぜドラスティックな転向を言説として発表しなければならなかったのか、ということである。時代認識やより広く文脈を気にすることなく建築を消費することで、古典主義やモダニズムは誤読され続けてきたし、そうしたジャンクな誤読の中からある一つの理論を組み立てるのがプロフェッションとしての建築家の仕事である。この認識に立つことで初めて「M2ビル」と「ディズニーランド」と「アウトレットモール」の差異を考えることができるようになる。古典主義は建築を学問として考えるための方策であったし、(モダニズム建築が近代を主導したというのはもはや誰も言わなくなった誤解だが)モダニズムは近代で産業革命以降の造形論理を建築に持ち込んだ。このようにやはり建築は政治的な問題として語られなければならないし、隈の様式から素材に還元された表象操作も逆説的に(?)政治的言語としての建築の一つなのではないかと考えるのである。*8

こうして考えていくと、『暗殺のオペラ』で老人しかいない小さな村を訪れ、同姓同名の父がファシスト批判のために暗殺された、ということを象徴的に演出するために自ら「暗殺させた」という事実を発見したアトス・マニャーニのように、隈の作家としての経歴の中で「M2ビル」は、装飾を断罪し「素材」に転向することで、軽薄な商業主義や鈍重な歴史性から切り離されたニュートラルな現代性を獲得するという鮮やかな手つきのなかで、ある種象徴的に暗殺されたのだったと演出しなければならなかった、ということを老人がいなくなる世田谷のセレモニーホールを訪れるごとに発見せざるを得ないのである。

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そう言えばこういう「日本」もあるよな

 

*1:今回は詳述する気が起きないのだが、ひとまず架構形式や構成原理に着目していたモダニズムまでの機能主義から、その対象が素材という水準に具象化されていることが指摘できる。しかし厳密に言えば機能主義と少し距離のあるコルビュジエや機能主義の正当な後継を掲げていたメタボリストたちまでそれらの関係を考える必要がある。

*2:この文章は磯崎が『建築文化』に連載していた論考を新版の『手法が』に収録するにあたって集成、再編したものであり、連載当時の文章とのちに『新建築』、『SD』に発表した文章を並べた一連の論考の<後口上>として書かれた部分である。この「前出の論」というのは「つくばセンタービル」について書かれたこれら一連の論考のことを指す。

*3:磯崎新, 1997, 「反建築的ノート」『手法が』, 鹿島出版会, p.327-328.

*4:ちなみに磯崎はこの方法の説明にベラスケスの『ラス・メニナス』を用いて王の不在と国家的様式の不在を重ね合わせている。監獄を引き合いに出さずとも中心の不在と眼差しは何か密接な関係があるのだろう。

*5:例えば建築批評家の松葉一清はポスト・モダニズム建築を次のように素描する。「一九二〇−三〇年代に勃興したモダニズムは、そうした建築における芸術的表現を近代化、合理化の障害となる『罪悪』として排除し、二十世紀の建築から、『図像』の豊かさは失われた。それは『図殺し』の半世紀の始まりであった。一九八〇年代のポスト・モダンは、この失われた図像表現の回復に功績をあげた。都市は再び『図像』に溢れた場となった。」(松葉一清, 1991, 『現代建築ポスト・モダン以後』, 鹿島出版会, p26.)

*6:森清, 「大きな失意のなか地方へ、隈研吾氏に聞く(5)(新しい建築の鼓動2010)」, 2009.12.15, 日経Xtech https://xtech.nikkei.com/kn/article/building/column/20091211/537634/

*7:左藤青, 2020, 「建築は『不気味』たりうるのか?」『大失敗 I-2』, 批評集団「大失敗」,  p48.

*8:ちなみに磯崎新は60年代に「政治的言語とマニエラ」と題した論考で、モダニズムに見られるリアリズムから建築を切り離す為に、マニエリスムからの連想で設計行為に《手法》という概念を設定し、そのフォルマリズム的な方法が(題名から明らかであるが)政治的な営為になりうるということを主張した。自分が磯崎に興味を持っている部分はここである。また隈は極めて優等生的なリアリズムによって建物を素材に付与された(検証されることなく解毒された)ナショナリズムと結びつけ、建物の政治性を正当化しているのではないか。