日記:対象について

 環境と対象、みたいなことがある。

 

 たとえば部屋にいて向かいの人がコップを持ちそれについて話を始めるとき、そのコップは「対象化」され、それ以前の状態を「環境化」されていると考える。ではそれを「環境化/対象化」するのは何か、近代的身体である。このような知覚の構造には近代が埋蔵されていると言える、近代的身体が「環境/対象」という図式を成立させると言ってよい。では現代的身体とは何か、これは難しい。

 建築家の伊東豊雄に「脱近代的身体像 批評性のない住宅は可能か」という論考がある。論旨自体はそれほど新しくもないし、伊東がここで論じている「批評性」という言葉も「メタからベタへ」くらいの意味であり、批評性のない住宅はある意味では可能でありある意味では不可能である、としか言えない。むしろこの論考の面白い部分はディエゴ・リベラフリーダ・カーロの住宅を設計したファン・オゴルマンの話で、モダニズムの建築家としての近代的自我とアーティストとしての前近代的自我に引き裂かれて最終的には自殺する。夏目漱石トム・ジョビンなど固有名を出すまでもなく20世紀によくある話であるが、自分はこれを相対化したい。

 近代(モダニティ)というのは何か、というのはそれなりにどの学問分野でも問題なんだろうけど、建築にとっては通時的にみて他分野に先駆けた唯一と言っていい栄光の時代であったし、それは19世紀初頭の歴史家が当時の最新の建築をバンバン位置付けたことが大きいと考えられている(読んでいる途中で紹介するのはよくないのだが、アンソニー・ヴィドラー『20世紀建築の発明』のテーマがそういうものである)。当然ながら地域ごとに違うわけだし、いまだに近代をやっているような地域もある、自分はわかりやすいのでよく「人間は世界中どこにでも存在しているので建築に途上国は存在しない」などと説明してしまうが、これは単に嘘なので知人各位には気にしないで欲しい。まあ雑駁に言えば、近代以降は自分という存在をどのように形式化して環境に定着するかという問題を考えてきたと言ってよい。それがここ10年くらいで煮詰まってきているなあという印象があり、それは環境に定着すべき存在を近代的身体で想定してしまっているからに他ならない。その意味で伊東の仕事は全然脱近代的だとはどうしても思えない。

 モダンからモードに、みたいなことも考えたい、ジャズ好きだし。でも今更モード(様相?)を掲げても、、みたいな感じもある。今の状況は本当にベタで、オードリーとかアルコアンドピースとかそういうラジオ芸人が鬱屈した自我をオブラートに包んで社会的に訓化する作用をしているという印象を持たざるを得ないし、特にその部分が好きではない、ラジオは好きですがここ数年のオードリーはかなり難しい、大変そうだなあと思ってしまう。関係ないけどずっとゼロ年代批評は避けてきたのだけれど(なんで?)、そろそろ読む必要があるっぽい。