色々な制度はさておいて留学に行く日本の私

要約:頑張りまーす

下の記事の続き(全ての出来事は何かの続きなのでは?)です。学振には無事に落ち(マジクソどうでも良い平均的な評価だった、ちなみに偽学振に通り月15万円の雑所得(課税、学費減免なし)を得ています)、何も阻むもののない日本の私は留学に行くことにした。

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 ちなみにトビタテの計画変更も通り、制度終了の2022年度中の渡航はこのプログラムの支援を受けることになっている。トビタテの都合で勝手に2022年度中までの渡航しか支援されないというのは誠に一方的かつ困った話ではあるのだが、それに負けず劣らず自分も勝手に渡航してしまうわけなので問題無しということになる。というか南米への一年間のインターンシップという予定がヨーロッパの世界一物価の高い国への研究留学へと変更しても支援してやろうというのもなかなか豪胆だと思う。自分もそれくらいの豪胆さで動きたい。

 まあ何にせよ留学できてよかった、ということもなんだかんだないことはない。例えばうちの王(弊研ボス)はまあ結果的にこれでよかったんじゃあないか、と言ってくるので曖昧にそうですねぇと答えておきつつ、あらゆる機会を逃して結局留学に行けなかったボスの気持ちを差っ引いて、まあそれでもわりあいよかったなと思っている。しかしこういう気持ち、あるいは理解の仕方も、現実と折り合いをつけるためのレトリックでしかないわけで、でも何だってレトリックなわけだから(ロマンチシズムであれリアリズムであれ確固たる真実を追い求めることがどういう帰結になるのか考えた方が良い)、まあこれで構わないということになる。何はともあれこれから留学に行くことができるということをどういう風に位置付けるのかというのが問題であることは、留学であっても就職であっても変わらない。

 そういえばノブレス・オブリージュとかいう田舎者の規範もあったの思い出す。確かに自分が今こうして博士課程にいてだらだら研究とも実践ともつかない曖昧かつ甘え腐った暮らしを続けていられるのも色々な社会的不平等の上に成り立っているわけだけれども、それが何かしらの義務に直結するというのはあまりにも文化的なナルシシズムだと思う、まあ自分はかなりロマンティックかつナルシスティックな人間であることは確かなので別にそのナラティブに乗ってもいいわけだけれども、一方でノブレス・オブリージュを内面化するということはその義務を果たすべき対象の共同体に対する帰属を表明することだから、なかなか自分の気持ちがついていかないのも事実である。いやもちろん社会的な不平等に基づく利益を得ている(偽学振こそ他のあらゆる大学の犠牲の上に成り立つ競争的資金に他ならない)わけだから、その共同体に対して果たすべき責任があるということはわかるのだが、心のノート世代としてはそんな簡単にはそうした道徳を採用することに躊躇いがないとは言い難い。

 最近はとにかく自分と社会との関係(2年前までであれば和解と呼んでいたはずだ、おれも歳食ったんだよ、、、)に想いを馳せることが多く、海外で生活することでそれも相対化できればいいなと思う。相対化してどうするんだろうとも思うけれども、でも自分は例えばどこかの国の永住権を取ろうとかは全く思えないし、なぜかこの国や東京という街を捨てることができない。東京という街とここで呼びたいのは地方出身者の共同体であるところの東京という都市ではなく東京で生まれ育った人間にとっての東京という街があるからである。まあ地方出身者や他の地域の人にとっては全く共同体や界隈性のない冗談のような都市に見えると思うが、そうした場所にも街が成立するというのが人間のしたたかさでありいいところであると思う。トゥアン亡くなりましたね。まあ何はともあれ日本にいるだけの限界が実感できればいいと思わなくもないし、漱石やKid Fresinoを消費していたのはこうしたことにつながっている。まあ漱石でそれをいうのがめちゃくちゃなベタなんだろうけど日本西洋の古典的な対立構図で回収されるナラティブなんだよな、多分胆力のある人間はこれを読み替えるみたいなことをするんだと思う。そろそろそういうロールモデル思考もやめた方がいいかもしれない、自分はロールモデルを(他のあらゆることでもそうだけど)大量に参照することで人生のバランスを取ろうとしているので、まあ曖昧なひどい人間だと思う。こういう話をすると誰がそんなこと気にするんだって思われるけど自分が気にするんだよな、ナルシシストなので。ダンディズムに成れるといいですね、いや将棋のルール知りません。メトロポリタンになることもできず島国で浅黒家族を形成することもできない自分にそんなことできるんだろうか。『山猫』ですね、ヴィスコンティ好きですよ、聖地巡礼しようかな。

 我々(要出典)は社会に背を向けた大変非社会的な人間だと思われていると思うが、そしてそれはある程度正しいけれど、じゃあ社会というのがどこにあるのかと言われれば別に会社(産業界)だけにあるわけでもなし、ローカルなコミュニティだけにあるわけでもなし、学問が措定する理論的なナラティブの中だけにあるわけでもないので、まああんまり説明可能になりきらないからといって思い悩みすぎることもないのだと思う。「その社会が建築を創る」のような主張が意味を持った牧歌的な時代もあったが、でもその主張が今でも有効に思えるのは大衆はあまり変わらないということ以外に理由がないのではないか。移民を大量に導入するように突然方向転換するわけにもいかないだろうし、この国家がこのままグズグズと没落していくのは10年前からわかっているのだから、いい加減どうするのがいいと思えるのか決断するのがいいような気もするし、そんなことができたのは歴史上一番ナイーブな近代だけだったのではないかという気もする。まあ自殺するには歳を取りすぎたということなのかもしれない。

 酒を飲んでだらだら打ち込んでいたらこんな話になってしまった。自分を社会の中に位置付ける方法を既に模索されている読者諸賢にとっては青雲の志を思い出させるようなどうでも良い文章を書いてしまった。以上、終わります。


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