とてもゆっくりと進む談合

14億の個人、迫力があってかなり好き。

 超大国と人々について書く。特に一昨年から彼の国の人と関わることが多くなったのだが、異国での、ないしは異文化との体験というものは概して暗黙の了解は通用せず、社会に内在する論理を見出しづらい。理工系の大学に所属していると、問題に対してそんなの自明だとかのたまって他人を煽るような態度がよく見られたが、それがいかにナイーブな態度であったかを思い知ったと言わざるを得ない。他のいかなる国であってもこちらが思う甘美で退行的な自明はそもそも成立しない。丸腰で放り込まれたこちらに対しては常に剥き出しの権力と意向だけがある、確かにそのように見える。あの赤い政治体制とそれに伴う社会構造はしっかりと個人の振る舞いに内面化されており、例えば学生は師匠のように教授を崇拝しているという印象を受けたのだが、逆に教授からの明確なジャッジをこちらが思うより過剰に要求する。儒教のイメージからするとこの態度は特段礼儀正しいというようには映らないとも思ったのだけれど、これがこの国の教師-生徒のあり方であるという以上のことはないのであろう。教授の述べた意見は箴言のように厳格な判断基準と化す、というよりそのように判断することが一種の解釈であるということに対して自覚的とは言えないということである。権力に対しての意識を剥き出しにすることはあまりないのだが、個人主義的な振る舞いがぶつかり合って、自分が見ると抗争にしか見えないのだが、最終的に権力者が何らかの決定を下す、という構造が幾重にも重なっている。これは彼の国の仕事でよく表れており、当局の人間が下す判断に向けて大量の抗争-裁判が繰り返されてゆく。このためか初歩的な決定を下すプロセスに大変な冗長性が確保されているのが大きな特徴であり、こちらの想像する一般的な民主的意思決定プロセスとは随分と違うなあという印象がある。一事が万事そうかと思えば、そんな社会構造の上(下?)にも逞しく若者文化が花開いていて、観光地にはライブカフェが乱立し、LINEはかのグレート・ウォールでブロックされているはずなのだがキャラクターはたいへん人気がある。しかしあの赤い共和国についてよく言われるような速度感というものはそこには全く感じられない。つまりあの華やかな速さは、コンセプチュアルな水準で行われた大量の抗争と裁判の帰結としてやってくる、ある程度物質的なトライアルアンドエラーの応酬であったのだ、ということがだんだん分かってきた。あこがれの速度に辿り着くまでには非常にゆっくりと進む談合があった。