1年間走る

ジョギング初めてだいたい一年くらい経った、所感を述べます。

とにかく運動とかしたことないし、チームスポーツがめちゃくちゃ興味ないので基礎体力とかまるでない人間だったけど、大学閉鎖期間になんとなく始めた。たしか既に書いたような記憶もあるが、直接的なきっかけは磯崎新の『空間へ』というエッセイ集で、それに書かれている薄暮の体験が面白く、ちょうど6月で気候も良いので日没前後に出かけることにしたのが最初だった。

磯崎のエッセイでは、ニューヨークのダウンタウンでガラス張りのビル群のなかにいると、薄暮で室内と屋外の明るさが等しくなったタイミングで、窓ガラスの反射がちょうど起こらずに影も無くなって、ある種の浮遊感が感じられる、というようなことが書かれている。うちの近所は別に摩天楼の只中でもなければそもそも住宅地なのでガラス張りの場所もなく、書かれている通りの体験がある、というわけではないのだが、薄暮の街というのもそれだけでそれなりに楽しい。しかし異常なまでに怠惰な人間なので、定期的なジョギングを習慣化するのにたいへん苦労した。

とりあえず夕方の街を走るという体験がそれなりに面白かったのに加えて、地元でよく遊ぶような人間でもなかったので、人生で一度は地元にめっちゃ詳しくなるタイミングとか必要かなと思って、歩いたことない地域に走って行ってみることにした。幼少期の転居が影響して地元愛とかまるで無い人間だけど、こういう時に都市や建築が専門だというのはブラタモリ的な意味で便利ではある。ブラタモリは全然世俗的なんだけど、まあディシプリンとかちゃんと成立しているわけでもないし別に問題ないよな、みたいな感じが最近はだいぶ定着してきた。でも実は学術的な厳密さというのはこんな分野でもやはりあって、修論レベルになるとそういうところまで辿り着ける、というのが分かったことが最近の修論の進捗で一番うれしい。

何はともあれ、週に2、3回くらい走る、でも定期的に関節を痛めて2週間から1ヶ月くらい全く走らない、みたいな感じでだらだらやっていたら一年経ってしまった。目に見える体型の変化とかは別にないし、走り続けられる距離が2、3キロくらい伸びた、というくらいでたいした変化はなかった。スケールや身体感覚にも別に変化はなく、空間の認識が多少変容したくらいで、別にこれからも適当に走り続けると思う。とにかく怠惰な人間なので、一回習慣づけてしまったものを理由なくもう一度やめるのもそれなりに難しい。