小池百合子とアナキズム的ユートピア

 最近、夏目漱石を読んでいる。「近代的個人」が問題なのでそういうアプローチで小説に手を染めているのだけど、批評を並行して、あるいは連続して読む必要を感じる。たった今、学内でめちゃくちゃイチャついてるカップルを追い越しました、人のいない構内で歩きスマホすんのサイコーだぜ、百合子ありがとう

 近代って一口に言っても茫漠としてどうしようもないので、ひとまず脱近代の取り組みを精読することをテーマにやっている。批評としての○○というのはどの分野でもあると思うけれど、何に対する批評なのかを明確にしないと本質的に意味のない言い回しで、結局リアリズムに転向する作家が大半だし、本当に老化はきわめて凡庸な現象なんだと思う。だからなんだと言われると、やはり何のために、という問いのない実践はただの動物的反射でありそれをやりたくないからこうして年間50万払って国立大教授に弟子入りしている。要は、退屈と苦痛がとても似ているということだと思う。

 最近はとにかく体調がいいのに睡眠が不調で、急に9時間寝たと思ったら1時間だけしか寝てないのに猛烈な悪夢をみるとか、3時間おきに断続的に起きたり、トータルの時間でみると十分に寝ているから困らないんだけど、なかなか難しい。昨日はポリオかなんかの難病で死にゆく子供と途上国で面会し、号泣する夢をみた、夢のモチーフを身近な記憶に求めるとたいてい最悪なことになるので考えないようにしているが、そういうものの集合としての夢診断とか占いとかって、そこそこ政治決定と近いと思う。ところで隣で一緒に泣いていたのは誰だったか思い出せない。まあどうでもいいね。

 とかく世の中が大変な時に、うちの分野の人たちはかなり真面目な進歩主義者が多くて、震災後とかもかなり最悪だった。でもああいうリアリズム的な実践がありがた迷惑になっている、というのは本当は作家という合意形成の独裁システムに問題があるわけではなく、そういう作家的な手つきを仮想敵として不平不満を言説や土法的実践でねじ伏せようとするリアリズムの暴力に問題があるのではないかと思う、でもそのときリアリズムにおけるリアルって何がリアルなのかと思わなくもない。実務者としての作家のアンビバレントはここに集約されていると言っても良い。つまりどれだけ社会的な連関を記述したところで、その世界観はバーチャルでしかあり得ない部分もあり、でもそういう抽象性に駆動されている実体的な側面もある。なんのためのリアリズムか、というよりもリアルとアンリアルの確定不可能性を前提にしなければその先に進めないのだが、ヒトの気持ちがこの二元論を乗り越えることは当然ながら難しい。結局このへんで戯れるというレム・隈の路線が経済的にみると最適だということになる。まあレムと隈の間にはメトロポリタンと市民という大きな違いが横たわっているのだが、ここまで来ると、そういう意味でどこの国の国民でもない存在になりたいと言っていたらしい多木浩二に猛烈なシンパシーを感じざるを得ない。でもそれは単なるユートピアなんだよな〜