ナイトホークスだけじゃない、都市と夜の本当の関係

君は(呑んだくれていないときに)終電に乗ったことがあるか。普段大学院という白そうで白くない少し白い巨塔にいると分からないが、終電には様々な人がいる、スティーブンセガールに似てる若者、前田敦子に似てる学生、ピーポくんに似た老人など。たとえば一度新宿の街を歩くときすれ違う人々を何かに例える百本ノックをしてみるとわかる。だいたい人間の認知できている人の顔は高々200種類弱程度で、後はシミュラクラとキャラクターで理解しているのではないか、体感ですが。

 

つまりキャラクターというもの、より本質的には記号というものは知覚を拡張する営みのための道具であって、貨幣のように合理的に生き残ったものなのではないか。こう考えてみると、知覚の拡張として開発されてきたという技術的な側面のあるメディアは、その営みが本質的には記号の交換であると言える。メディアはメッセージであるとともにマッサージであり、人生は記号の生成プロセスでしかないのか?そんなことを考えながら新宿を歩くとだいたいアルタ前に辿り着き、正午から大量の記号が生み出されていた遺跡を前に畏敬の念すら感じてしまうことはないか、いや別にそんなこと全然思いませんが。

 

 

例えば「凶気の桜」における渋谷は主人公の生活圏の一部に繁華街が描かれるが、「新宿スワン」における繁華街、新宿歌舞伎町は生活の剥ぎ取られた純粋に社会的な存在の交錯する場として描かれている。この時繁華街という場は誰のものであると理解されるか。それは所有の問題ということでは全くなく、その社会において誰に対して責任を負わなければならないかということである。都市、正確には都市表象である景観はある種のマスメディア的存在であり、そこに参画する人間全ての生活と地続きである。つまり景観を破壊することはその都市に関わる全ての人の生活を破壊していることと同義である。しかし破壊が必ず絶対的な悪であるとは限らないこともある。破壊された景観を見に行くことは自傷行為か?よくわからなくなってきました。

 

 

画像はイメージです、という但し書きの意味するところは何か?「画像」に対応する英語はそもそも“image”そのものではないか。ということをここ15年くらい思っていて、イメージについて考えるところに来ています。しかしそういう一貫性は事後的に発見されていくのであって、何かの本質を追い求めているとはおよそ言い難い。一貫しているのは都市にいるというだけなのかも知れない。

絵画に図像があるように人格にもキャラクター化された形式が存在するのではないか、さらに空間の形にも記号性のあるイメージがあるとするならばキャラクターの行為や関係にも記号性が存在するのではないだろうか、ものの実在や物自体を扱いたいという気持ちはあるのだが、可能なのだろうか。またこれはアイコノグラフィの一般化だろうか、いやむしろ逆だろうか。よくわからなくなってきたが夜は明けてきたことだけがわかる。

 

この文章は歌舞伎町で深夜3時に書き始めました。


Yellow Gold / Andy Allo (Live @ La Maroquinerie, Paris 2013)