カリーヌの死とテレビドラマ
『カリーヌの死』みた。
カリーヌの死まじテレビドラマみたいだった。
・97分、2時間枠かと思った
・最後主要人物同士がカップルになるオチ
・やんわりした勧善懲悪
勧善懲悪とはなんですか
勧善懲悪、それは社会保障ではないですか。今アポカリプト流しながらこれ書いてるけど無意味に大量の心臓が捧げられててすごい。ロナウジーニョ似の人主人公っぽいんだけどマジでロナウジーニョに似てる。ロナウジーニョって誰だっけ?
当然あらゆる現実にとって勧善懲悪はある種の物語であって、ある種の戯画に過ぎないんだろうけど、冷笑や諧謔ではなくこういう物語みたいなものマジで重要だと思う。普段工業大学にいると忘れがちだけど論理的な世界というものは特殊な世界であって、正解はないけどなんとか説明可能にしてしまうみたいな多少暴力的な側面があるというのが普通なんだよな。学問がどうとかよりも科学とは、とか合理とは、とか言ってる自身が意味わかってない概念設定して無意味な議論展開するツイッター言論にはマジでウケてる。それこそ合理的ではない感じする。まあ全然関係ないんだけど。
そういえば最近合理性も怪しくなってきたよな……
合理性概念と楽しい夕べ
この前、てかまあ割と前なんだけど、あるイギリス人に合理性を求めるのが40年前とかのテーマだったんだけどお前のは合理からかけ離れてるし普通に奇妙だみたいなこと言われた。うおおおお今ロナウジーニョ似が滝に落ちました。40年前に未だに合理性だけ追求してるとかどんな素朴な世界だよとか思うけど、合理性の追求は自分のテーマからはかけ離れています。やはり意味の世界がもっとも重要なのか、答えは出ませんが。
メディアとしてのテレビドラマ
ところでツイッターとかやっぱ最悪のツールで、自分だけのオリジナル物語を作ろうみたいな、現実と認識の問題を矮小化する営為にしかなっていないものが多い。イデオロギーや立場による情報の厳選や、その逆として過剰に情報に触れる姿勢、どちらも現実と認識する情報という永遠に埋まらない溝を作り出して、それを原動力にして動くみたいな世界、なんかボードリヤールみたいな感じになってきたな、ほぼ知りませんが。
カリーヌの死みて真っ先に感じたのはやはりメディアとは何かという新しくて古い問いで、テレビドラマというソフトの形式がありそれ自体にイメージがあり、それがメディア的な機能をもつ、つまりメディアの本質は記号なんだなという精彩を欠いた雑な把握があった。
頼むぜ
— 引用 (@_32J_) 2019年7月23日