教室と壁画、宗教的なるもの

今学期は宗教学しか授業とってない、工学専攻です。こころのノート世代なので、こころが育っています。 

宗教学の講義かなり面白くて、テーマはいのちの教育と愛国教育なんだけど、宗教的なるものが初等教育でどのように扱われているのかについて授業が展開される。宗教学(宗教社会学)ではやはりバブル景気以降、オウムや酒鬼薔薇などを契機として道徳倫理教育の必要性が叫ばれて、おれら世代にしか馴染みのないこころのノートが開発された(改訂で名前変わったらしい)という社会状況が前提にある。このとき、「いのちは大事」とかの倫理的な価値観の前提に何を置くのかというのが問題であり、ここに政教分離のもと神など既存宗教の超越的な力にそれを求めることが禁じられているという日本の特殊性があるっぽい。

こころのノートの編纂の中心人物に河合隼雄がいるのめっちゃ納得があった、奥付の著者は文部科学省になっていますが。結局、こころのノートにおける「こころ」や「いのち」の源泉は「大いなるもの」と表現される。「大いなるもの」とはなんですか?

教授から英語では“something great”であるとの説明があったが、つまりこれは言い表し難い超越的なるものということでキリスト教世界では全知全能の神ということになる、では日本ではどうなるか?前述のように日本の公教育で既存の宗教の価値観を組み込むことはできない、「大いなるもの」はこの前提の中でニュートラルに超越的な存在を示す表現として使われてる。

ここで「大いなるもの」に至るまでのこころのノートの流れを見る。こころのノートで「いのち」について語られる重要な章であるが、「いのち」は誰のものであるかというような疑問が提示されてる。「いのち」を大切にしなければならないと説く必要があり、「いのち」がその自己だけに帰属するものではなく、「与えられ」、「通じ合」い、「輝く」ものである、つまり社会的な存在でもあるという説明がなされる。ここで、その源泉は何かという話になるのだが、やっと次のページで、それは「大いなるもの」であるということになる。

こころのノート公開されているのでみてください。

https://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2011/02/23/1302317_25.pdf

注目すべきはこのページの背景である。こころのノートはマジでベネッセ的な過剰装飾に溢れてて、1ページごとに切り取っても年賀状みたいなヤバさある。このページも例外ではなく、なんと「大いなるもの」の背景に山を描いた日本画が使われている。さてこの作者は誰であろうか、、、そう、東山魁夷である。(唐招提寺にある「山雲」という絵であった、モチーフが特定の宗教のものでないというだけで仏教寺院の絵を使っていいのか?政教分離がよく分からなくなってきました)つまり、ここで「大いなるもの」を説明するために例示されているのが日本画であり山の姿であり、つまり雄大な自然であるということは特筆に値すると思う。


東山魁夷の大作「唐招提寺御影堂障壁画」を茨城初公開  県近代美術館

 

特定の宗教に繋がる奇蹟などを使えないということで動員されるのが自然である。確かに中立的な表現かもしれない、山岳宗教は?まあどうでもいいのか。ここに微妙に日本的なるもの(ないしは神道)のアニミズム的な宗教観を見て取れる、人間の理性(超越的な存在の理性?)を前提に置く西洋の価値観とは異なった、時に無慈悲ですらある圧倒的な自然という「大いなるもの」観が「いのち」の源泉の説明に使われている。小学生のおれが安易に日本的なるものアニミズムを結びつけていたのはここに原因があったのかと思うと感慨深いものがあるな。

さらに、ここには美学的な問題もあると考えている。つまり、美学でいうところの「崇高」が超越的なるものの説明に動員されているということである。「崇高」というのは確かに超越的な存在に対する感情であり美的範疇であるが、特定の宗教に与しない普遍的な宗教心のようなものを説明するのに極めて適している。しかしここまでくると、結局既存の宗教を公教育から排除するということが結局なんなのか分からなくなってくる。宗教情操教育議論というのがあったらしく、確かに政教分離原則のもとでこの情操教育は説明できなくてヤバいんだけど。今自分は政教分離は宗教の社会制度として確立されている側面を排除するという解決であると考えている。

 


Alice Coltrane Harp Solo

そういえばスピリチュアルというのもあったな。