日常的、とは何か

 今月は半年間の休学が終わる凄まじい焦燥感で楽しく過ごしている。もちろんこれまでの半年間もほぼ毎日研究室に行っているわけだしこれからの半年もほぼ毎日研究室に行くわけだから何も変わらないに決まっている。書類上はこれからの半年間で修士論文をまとめて学位申請をし、発表審査を終えたら博士課程入試があるという気合い入れる必要のあるスケジュールなのだけど、別にこれまでの数ヶ月はずっと研究しているしテーマもだいたい固まりつつあるし、博士課程の入試は面談のようなものなので、かなり日常っぽい、でも日常ってなんですか???

  この半年は研究と娯楽を日常的にしたいと思ってやってきて、それはそれなりに成功していると思う。ゼミもだいたい3日前には発表資料が大方できているし、2日に一冊読書、一本映画を観るリズムもほぼ守れている。労働をしていない場合、その対概念である余暇も成立し得ないのは当然であって、制度上は学生だが実質上の研究従事者でもある大学院生の生活がつらい、というのはほぼこれで説明できる。説明できるだけなのでどうでもいいが。

 特に自分の分野では研究従事者でありながら実習科目として実務経験も積んでいるわけであって(これはもちろん書類上の話で、標準課程で定められた時間からは全く自由に実務を行っている、どう考えても徒弟制以外の説明が思いつかない)、労働と余暇みたいな関係はとうぜん一切成立しない。というか研究活動って既存の労働概念とかと馴染まなくない?農耕とか工場生産とはそもそも価値生産の機構が違うわけだから労働生産性とかまじあり得ないと思う。でもそう考えると一般的なサービス業とかコンサルとかも生産性とか考えられないんじゃないか、働けば働くだけ価値が生産できるわけではないこともあるよな。

 ということで研究活動を日常的にするためには、労働と余暇みたいな関係をそもそも逸脱した日常を構築する必要がある。身体性とかポイントになると思ってジョギングとか始めた、別にほぼ変化ないけどkm単位のスケール感覚が変化した。つまり領域が変化したので、自我もそれなりに変形してきた自覚もある。

 あと去年映画みすぎだったので、今年は半分にしてもう半分を研究に費やす運用とした。でも気づいたら名作、大作主義に傾きつつあって、こういうとこに自分の中から生産性概念が滲み出してくるとは思わなかった。いや予想はつくんだけど。何はともあれさっきオールナイトで観たストルガツキー兄弟原作映画特集は最高だった。結構寝たけど。


Дни Затмения - фрагмент "У меня была мечта"