修論雑感

 この前修論発表した。

 

 

 
 卒論も結構その感じはあったんだけども、修論はとにかく集中しないことを頑張った。とにかく怠惰な人間なので、何ヶ月も根詰めてガリガリ研究するとか、まあ多分それなりにできるんだろうけど、それ以前に面倒そうだしやりたくなかった。そもそも修士号を、そんな1日2日徹夜したら完成するとか、そういうものとして扱いたくなかったというのもある。

 

 ここにウチの分野の特殊性があって、芸術と工学の間みたいな学問分野なのに、なかでも一番人文とか芸術に近いところが専門なので、そもそも自然科学としてあんまりちゃんとしてない、というのが多分前提としてあるんだと思う。この辺の気持ちをあまり分かってもらえないというのが、ウチの分野にDC取ってる人がほぼいないことに影響していると考えてもよい。まあアカデミアと大蔵省との問題を語るのが今回の問題ではないわけで、なにはともあれ、資料集めは別にしても分析自体はひと月もあれば十分だし、それまでにどういった文脈でどういう項目でもって評価するか、といった前提を固めておくというのが一番重要であって、それを8ヶ月くらいかけてやるというのがウチの研究のスタイルになっている。なんか卒論みたいだな。まあそれでも良いです。ともかくこの点にはふたつの反論がある。

 

 まず、ウチの分野が学術的にしっかりしていないのではなく、分野の縦割りのなかに適切な位置付けをできていないことに起因する問題なのではということがある。たしかにこれはある程度正しくて、例えばウチの研究室でやっていることといえば言説研究とメディア研究だし、学位申請書とか書きながら留学生に、なんでこれが修士(工学)に値するんだろなって言うとバカみたいにウケる、おれの周りの留学生がゲラというだけな気もしてきたな。ともあれ、鉄骨ヒン曲げたり人流の計算したりゴリゴリ工学やってる人たちと、どうでもいいジャンクな言説とか地図とか絵とかをチマチマ分析してるウチらが同じ工学という土俵で位置付けきれているのかは甚だ疑問ではある。

 次にいえることは、逆にウチはむしろかなり誠実に学問をやっている、ということもありえる。どういうことかというと、実は前述のことと連続しているのだが、ウチの研究を工学のなかに位置付けるのに相応の積み重ねがあるわけで、そういった蓄積の上に意匠学やらうちの研究室やらボスなどが存在している。当然あらゆる分野で同じことがあって、その点で統計学や数理系の学問を援用していようが、メディア研究や言説研究をやっていようと質的な差は存在しない(してはならないはずである)のではなかろうか。

 

 とまあ別に修論レベルなら考える必要のないことを考えながら修論をやった。進学するわけだから当然である。ウチの分野の研究の置かれた状況は確かに深刻な引き裂かれのなかにあるし、そもそも実践との関係あるいは距離の取り方も特殊である。とくに、実践とどのように関係づけて研究を行うか、というのは個々の研究室、研究者でめちゃくちゃ差があるし、どれくらい差があってもよいか、というのが学閥によってなんとなく定まっているという印象もある、もちろん空気を読んでいるほとんどの人間にとって、でしかないところもある。

 というわけで、修論をなんとか終えた。でもよく考えたら、他人の修論の手伝いでは徹夜したりしたけど自分の修論では毎日7時間くらい寝て相当自由にやったというだけで、かなり頑張ってしまっているのかもしれない。ただできる限り戦略的にやれたわけだし、健康体のまま終えたわけだし、別にいいのかもしれない。自分はとにかく猛烈な面倒臭がりなので、こうして短期的に集中せずやり遂げられただけでもある意味では成功したのだということもできる。

 

 ただ進学するわけなので、今回やったことがかなりターニングポイントになるっぽい。なににとってですか?おそらく自分のすべてにとってです。とはいえ自分の興味をすでにやったことを深めるだけに限定する必要もなければそういった意志もないので、これからもそれなりに自由にやっていくだけという気もする。

 自分のやった修論の内容についてもうちょっとメタいこと書くつもりだったけど特にまとまらなかったので、これでいっかと思いながらこれを書いている。まあとにかく関係各位ありがとうございます、という感じしかしない。本当に自分の現在を作り上げているのは環境によるところがほとんどで、ポジティブであれネガティブであれ自分から出てくる思考に対する影響は、その全部が引用に過ぎないと思っている。というのが、ツイッターのアカウント名で表現されていることである。


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