素描

修論、始まりそうな感じする。気持ちを素描します。

俗物なので偉人の言葉とか思い出す、安藤忠雄が「日本はインテリが戦わないからダメになる」みたいなこと言ってた。インテリ?!?とか思うけど修士課程は同世代人口の5%ほどしか進学しない訳だし、まあそれでもいいかナ、みたいな気持ちになってきた。だいたい経験的にそういう開き直りの感じになった直後に何かの前提が瓦解します。都市文化を味わうぞ〜ってときに都内の中学に落ちたり、新宿をホームタウンにしたいな〜ってときに最寄りの大学行くことになったり、社会人ドクターやろっかな〜って決めた時に留学が頓挫したりした。この辺が精神分析的に面白いっぽい、フロイトのこと分かりません。

修論、結構日常っぽくしたい。とにかく一気に頑張るみたいなの得意だと思ってたけど、どう考えてもそういうの苦手な人間だと思ってた方がうまくいくことが多いということに気付きつつある。思考の整理とか苦手で思ってること半自動的に集中して喋り続けるタイプなのでノート取るようにした、てかよく考えたら卒論の時も結構手書きしてた。あんま気にしなかったんだけど、勉強会半年やってはじめて発話することでかなり考えが進むタイプなんだということがわかってきた、ので喋って(ないしは発話をイメージしながら打ち込んで)考えたことを後で書いてまとめるスタイルにした。てか喋らなくてもよい、書いたのも後で読まないし、読み返しても自分の考えてたことの要点しか書いてないし要点くらいは覚えてるのでぱっと見は意味ないっぽい、けど書き下すとき要点がはじめて立ち現れてくる。繰り返し発話する内容、言い換えて何度も喋る内容がだいたい要点っぽいけど、どう考えても対象化することでしか進まない思考もある。例えば抽象概念の水準をそろえるとか、あと自分の専門領域だと図形描いたほうが圧倒的に早いことも多い。とにかく手で書くこと、描くことで思考が対象化される実感が強い。携帯のフリックはほぼ発話と一緒。ほとんど黙読しながらフリックしてる、単に平仮名が表音文字だからってだけだと思う。後で読み返せば対象化される。でも手で書いたほうがまだ早い。とにかくノートの一番初めに修論って書くのやめて題材書いた。別に修論だから何が変わるわけでもない、ということにしたい。うちの分野は学位申請以外で論文書くことはほぼないんだけど、それも慣習っぽい、変えてもいいなら自由に論文書くことが主張になってもよいと思う、弊学会のメディアとしての力が弱すぎるからやりませんが、今時共著者も全員会員にならなきゃいけない学会あり得んのかよ、と思わなくもない。

ともあれ、こういうの素描だなと思った。我々は未だにハンド・ドローイングを重要視してて、たしかにそれはそれなりに思考を方向付けているということが分かってきた。留学生に「今時手描き!!!」みたいなこと言われたりしたけど、思考とメディウムの関係はかなり古典的だけど本質な感じする。でもそんなこと結論づけたところで、ここからが勝負っぽい。ちなみにドローイングの研究にしたいです。